自己肯定感の育て方

ちょっとまじめなお話。

私は基本的に自己肯定感が低い人間だ。
そのことは私の今までの人生にかなり影響していると思う。
新しいことに臆病だし、現状を変更するのはとても大きな決断だ。

だから何事にもものすごく慎重に準備をする。
でも、実際、このものすごく慎重な準備の半分以上は無駄でしかない。

最近、子育てにも同じようなことを感じる。
本音を言えば、私は子育てが怖い。子育ての結果が怖い。
怖いから、とてもとても慎重に育ててきた。
といっても、過保護になるのもまた結果が怖いので、
慎重-非過保護=普通…みたいにプラマイゼロな感じだけれど。

現状、子供たちには何の問題もない。
普通に学校に行き、年相応の生活をし、
打ち込める好きなことも見つけられている。

でも、思春期というややこしい年齢に近づいている長男については、
ここのところ心配なことがあった。

つい先日、物を粗末に扱うことで叱ったのだけれど、
特に罰(ごはん抜き…など)なんてものは加えていない。
普段からそんなものは課したりしない。
それにも関わらず、叱られた後の夕食を、
まぁ叱られたからなんとなくしょんぼりと食べていたのだけれど、
「おいしい」と、感想をべそをかきながら言うのだ。

叱られたあとだし、そんな大したことではないのかもしれないけれど、
私はなんとなく違和感を覚えた。
この子は、誉め言葉を発することに、べそをかいてしまうほどなにか
心地悪さのようなものを感じているのだろうか?

なぜ?
私がほめてあげていないから??

多分…そうだ。
実際、私は誉めるのが苦手だ。
自分に親しい人であればあるほど、自分自身の血肉に近いからこそ、誉めない。
それはきっと私自身の自己肯定感の低さから来ているのだろう。
私の自己肯定感が低いだけなら別にかまわない。
でも、それが子供の自己肯定感を育てていない(かもしれない)ということには、
震撼する。やばい。

これは大人になってから周囲に言われて自覚したことではあるけれど、
私はある意味虐待を受けて育ってきた。
小さい頃は、父親の身体的、精神的暴力にさらされてきたし、
自分以外が父親の暴力を受けることも見せつけられてきた。
母は、その暴力から守ってくれなかったわけではないけれど、
結果的に、自分が夫と離れたくないがために、
私と父を離さなかったことにより守ってくれなかった。
「お前はだめだ」と言われ、「だめ」である罰としての暴力を受けてきて、
自己肯定感なんて育ちようがない。

それでも、成長するにつれて社会を知り、世界も広がり、
人生の伴侶を得て、家庭を築き、両親を失ったことで本当の意味での自立を果たし…
以後、少しずつ変わってきた部分はある。

今からでももっと自己肯定感を育てよう。
心配するのはやめよう。
目の前に何か降ってきたら、その時に対応しよう。
そう思うようになってからはだいぶ楽になった。

でも、その傍らで、長男の自己肯定感が育っていなかった。
これは問題だ。

ということでまずは、叱り方を変えることにした。
怒鳴ったりするのは、もうやめよう。
「共感」と「復唱」を駆使して話をするようにしよう。
それができるようになるまではとりあえず、
言葉はなくとも、毎日子供たちを抱きしめよう。
そして、少しずつほめる練習をしよう。

そう思う今日この頃。

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